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あるはいまつのどくはく

ある偃松の独白

中村 清太郎

線上閱讀中村 清太郎《ある偃松の独白(あるはいまつのどくはく)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 132,905 字 · 262 頁

青空文庫

宿はあるじの老夫婦と、親類や雇人の若い男女三、四人でやっている。老主人というのは、もう七十以上の、美事な白髯を垂らした、大柄の人物だが、気の毒に中風を病んで、身体の自由が利かず、親類の若者が背負って入浴させていた。だが口はなかなか達者で、帳場に坐り込んでは、他愛もない冗談口を叩いて、浴客たちを笑わせ、時にはお婆さんにたしなめられるほどだ。お婆さんは大分年下らしく、小まめな働き者で、かつ愛嬌者、この人が若い者たちを指揮して、万事を切り廻している。客には病をもつ者、特に胃腸病の人が多いらしいが、健康な人も決して少なくはない。それは農閑期を楽しむ山麓の村人たちだが、たまにはこの谷の空にそばだつ高山へ登る人や、そこから下りてくる人もあり、時には又、上流の鉱山へ通う目つきのけわしい人、山林を巡視する髭の長い役人なども見える。

黒部川も、源頭はなお十里の奥になるから、ここはちょうど中流の一部にあたるわけだ。これから上手は、いよいよ人跡稀な峡流をなして、僅かの林道と、小黒部、大黒の二つの鉱山へ通ずる細径の外は、路というほどの路とてない、殊に本流に沿うては、常人の通行ほとんど不可能とまでいわれる幽絶境になるのだ。