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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
線上閱讀山本 周五郎《樅ノ木は残った(もみノきはのこった)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 頁
甲斐は膳を下げさせ、明朝三時に起こすこと、馬を三頭用意すること、を命じておいて、寝たが、横になってからも、老盲人のことが、暫く頭を去らなかった。
――おれを知っているなどと云わなければよかった。
船岡の殿などと云われたので、すっかり興が冷めてしまった。あんなことさえ云わなければ、旅の一夜にめぐりあった、見知らぬ者同士で、気楽に話しもできたろうし、心にも残ったことだろう、と甲斐は思った。
「だが羨ましい身分だ」と甲斐は呟いた。
おのれが曲を作り、気ままに二絃琴をかなで、旅から旅へわたり歩く。恩愛もなく、身辺のわずらわしさもない。そうして、頭のなかでは、好ましい絵を描いている。すでに十幾幅かの絵が、頭のなかにはっきりと描かれている。それらの絵は、人に見せることもできないが、決して悪評されることもない。それでいいのだ、と甲斐は思った。
――それが事実なのだ。
人は誰でも、他人に理解されないものを持っている。もっとはっきり云えば、人間は決して他の人間に理解されることはないのだ。親と子、良人と妻、どんなに親しい友達にでも、――人間はつねに独りだ。
甲斐は胸ぐるしくなり、深い息をついた。