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たまものまえ
玉藻の前
岡本 綺堂
線上閱讀岡本 綺堂《玉藻の前(たまものまえ)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 130,703 字 · 261 頁
僧は耳が疎いらしい。幾度も聞き直した上で笑いながら言った。
「日が暮れてから誰が拝みに来ようぞ。この頃は世のなかが閙がしいでな」
半分聞かないで、千枝松は引っ返してまた駈け出した。言い知れない不安が胸いっぱいに湧いてきて、彼は夢中で坂を駈け降りた。往くも復るもひとすじ道であるから、途中で行き違いになろう筈はない。こう思うと、彼の不安はいよいよ募ってきた。彼はもう堪まらなくなって、大きい声で女の名を呼びながら駈けた。
「藻よ。藻よ」
彼の足音に驚かされたのか、路ばたの梢から寝鳥が二、三羽ばたばたと飛び立った。人間の声はどこからも響いてこなかった。夢中で駈けつづけて、長い田圃路の真ん中まで来た時には、彼の足もさすがに疲れてすくんで、もう倒れそうになってきたので、彼は路ばたの地蔵尊の前にべったり坐って、大きい息をしばらく吐いていた。そうして、見るともなしに見あげると、澄んだ大空には月のひかりが皎々と冴えて、見渡すかぎりの広い田畑も薄黒い森も、そのあいだにまばらに見える人家の低い屋根も、霜の光りとでもいいそうな銀色の靄の下に包まれていた。汗の乾かない襟のあたりには夜の寒さが水のように沁みてきた。