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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

線上閱讀吉川 英治《私本太平記(しほんたいへいき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 頁

青空文庫

俊基主従を途中まで送って、人目にふれぬ暗いうちにと、河内野を駈けるように、もとのわが家の苫舟へ帰ってゆく申楽師の雨露次であった。

ほどなく、餌香川が広まり、まだ寝しずまっている散所部落が見えてくる。

さきに、越えた浅瀬の水を彼はザブザブ渡りこえて行った。そして、以前の川の中洲へ帰り着くと、そこで初めて、

「ああ」と異常な緊張から解かれたような風だった。――袴のすその水をしぼって、しばらくは、そのまま空を仰いでいる。

ゆうべの満月は、あとかたもない。

その月も、俊基朝臣や菊王の姿なども、すべてが、一夜の夢だったような心地がする。

どこか、東の山の端は、はや明けかけているのだろう。川ノ辻あたりの水面だけが、ぽかっと白い。行々子のヒナやら雲雀やら、ほの暗い芦のうちでは、もうチチチチが聞かれ出す……

彼は知らない。寸前に待つ運命を、まだ何も覚っていなかった。

しかし、彼と別れた俊基は、ちょうど、この時刻ごろ、鉢ヶ峰寺の一堂で、心にもない昨夜の過失に気がつき、愕然としていたのである。

所持の毒薬を、べつの旅薬とまちがえて、彼の妻に与えて来たことを今朝となって知ったのだが、恐らくは、それを告げるためだけに、ここへ駈け戻って来るはずもないだろう。