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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

線上閱讀吉川 英治《私本太平記(しほんたいへいき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 頁

青空文庫

――ましてや、雨露次に虫の知らせもなかったのは、ぜひもない。

「……卯木」

わが家の苫舟を見ると、彼は岸の上から、もう妻の名をよんでいた。――その声には、一刻離れても、お互いに、待ちつ待たれつの、常日頃の夫婦仲が、ことばのほかに溢れていた。

「いま帰ったよ。……さぞ心細かったであろう。嬰児はあれきり眼をさまさなかったか。……待て待て、さっそく、葛粉を湯掻いてやるからの」

舟べりを踏む。

そして、苫の外を半ば巡り歩いてゆくうちに、ふと何か変った様子でも見たのだろうか。彼はあわてて身を這うように伏せて、

「卯木」

と、もいちど呼んだ。――が、返辞はない。

苫の内の灯は消えているし、あの眼ざとい妻が、寝返りを打つ気配でもなかった。雨露次は転び落ちるような恰好で、中へはいった。

そして、そこらの木枕やら寝床やらを、まっ暗な中で、狂気のごとく、なで廻しつつ、

「あっいない。ど、どこへ」

彼のつまさきで、器が砕け、とたんに動顛した彼のからだが、大きく舟を揺すぶった。

「卯木っ。卯木……」

また外へ出て、うろうろと、苫の外を巡り巡り、水へ向って、声をからした。――果ては、その声も、どっと、ただの大きな嗚咽となりながら、洲の陸へ盲目的に駈け上がった。