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しほんたいへいき
私本太平記(一)
吉川 英治
Read 私本太平記(一) (しほんたいへいき) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 246,214 characters · 495 screens
「よしっ、暇はやる。――離せ、だから離せ」
「いや。その手はお古い。とかく、あなたはまだ乳臭うござる。そんな者が、人知れぬ大望を抱くかと思えばなお末おそろしい。……可惜いのちだ。右馬介は武家奉公をやめ、これから先は何商売なとして金を儲け、都でしたい三昧の婆娑羅な生涯を送るつもりだ……。又太郎さま、おさらばでおざる」
あらためて、右馬介は、下の顔をじいっと見入った。
その深い眸が、ふと見せたものに、高氏は思わずあっといった。刎ね起きざま、自分を離れて走り去る影へ、
「待てっ、待ってくれい」
数十歩、夢中で追った。――しかしもう、右馬介の応えはなかった。そして、彼を吹きめぐる墨のような磯風のどこかで、ふと、思いがけない女の声がしたように思われた。いや明らかに、女は高氏の名を呼んでいた。
「や。誰か?」
あたりを見まわす。――あたりは依然たる磯山の松と、夜の海鳴りのみである。
どこにも人は見えない。
「いてなろうか」
高氏は、まだ落着き切れない胸と荒い呼吸のうちで思う。
腹心の家来ですら、生かしておけぬと考えたほどな自分の秘密だ。もし、他人に聞かれていたら、それこそ破滅。