후리가나로 읽는 일본 고전
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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
戸坂 潤의 思想としての文学(しそうとしてのぶんがく)을 후리가나와 함께 일본어로 읽으세요. JLPT N2. 단어를 누르면 뜻이 나옵니다.
N2 · 고급 · 신자체·신가나 · 209,809자 · 408화면
なぜならすでに、啓蒙期の啓蒙と一般に啓蒙なるものとを無意識にせよ混同するかも知れないということは、それだけでも決して科学的ではないからだ。
普通啓蒙期とその時期の啓蒙とは悟性の立場に立った機械論的合理主義のものだと云われている。それは歴史上の事実だから議論の余地のないことだが、併しそれから、一般に啓蒙乃至蒙啓の立場(啓蒙主義)が悟性の機械論的合理主義に限るという結論は、理論的に云って決して出て来ない。なる程蒙啓という言葉を所謂啓蒙期のものに限りたいならば、それも自由かも知れないが、併し今日のような論議無用の時代に、啓蒙という言葉は一体必要でないとでも云うのだろうか。歴史的に云って別な結論が必要なのである。
今日の啓蒙活動の原則となるものは、悟性の立場ではあり得ない。現代日本の反悟性的な反動(だからそれはミスティシズムになるのだ)に対して、再び悟性を持って来るのでは、理論的武器にならぬ。で今ヘーゲルの意味での理性の立場が必要となるのである。否もっと確実な形で云うと、今日の啓蒙原理は前に云った機械論ではあり得ないので、従ってディアレクティックであらざるを得ない(哲学史上機械論は弁証法――観念論的又唯物論的――と対立する習慣になっていることを断わっておきたい。