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みょうじのはなし

名字の話

柳田 国男

「斯民家庭 第二編第七号、第九号、第一〇号、第一一号」報徳会、1911(明治44)年7月1日、9月1日、10月1日、11月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 23,823 字 · 46 页

青空文庫

名を諱んだ昔の慣習

この源または藤原は姓といって、名字とは全然別のものであるというのが古来学者の説である。しかし突き詰めてみれば姓とても、自分の家を他人の家と区別する一種の方法で、名字はさらに同姓の家の間に甲乙を区別すべき第二の家号であるからして、二つの間に性質上の差別はないのであります。

名を諱んだ昔の慣習

名字という語の説明についても伊勢貞丈以来いろいろの説がある。これを比較して批評するのも煩わしいが、結局自分の信ずるところでは、名字とは、名と字であると思う。支那でも孔子名は丘、字は仲尼といいますが、この丘と仲尼とを併せたものが名字であります。日本でも支那でも名というものはむやみに他人から呼ぶべきものでない。人に向って自ら唱えるのは格別、他人ならば親とか主筋とかのものよりほか、わが名を呼ぶのはたとい殿君等の敬詞を付けてもやはり無礼であります。今日この思想は絶滅して、わずかに天子様の御諱だけについて残っております。西洋ではこの慣習は昔から全然なく、国王でもチャーレスとかウィルヘルムとか呼ぶことが許されたのであります。

我々が外国の新聞などに、わが邦の至尊の御名が羅馬字になっているのを見ると一種の名状すべからざる不愉快を感ずるのは、まだ感情のいずれの部分かに、名を諱んだ昔の習慣が、幾分か遺伝残留しているためであります。