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きゅうけつき
吸血鬼
江戸川 乱歩
「報知新聞夕刊」1930(昭和5)9月30日~1931(昭和6)3月12日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 190,554 字 · 381 页
その指先を、ポケットから出して、何気なく顔の前に持って来る。一種異様の不快な匂い……確に麻酔薬だ。ピストルよりも、ずっと恐ろしい武器だ。
曲者は、美しい文代さんを、一思いに殺すのではなくて、麻酔薬で意識を奪って置いてどうかする積りに違いない。
この男を警官に引渡すのは訳はない。だが、それでは、相手の真意が分らぬ。麻酔薬を持っていたからといって、必ず危害を加えると極ったものではない、どうしてやろうかしら?
「何を考えていらっしゃるのです」
男は不審らしく、文代の顔を覗き込んだ。
「イイエ、何でもないのです。アノ、わたしちょっと……」
文代の視線をたどると、通路から少し引込んだ所に、化粧室のドアが見えた。
「アアそうですか。どうか」
「アノ、すみませんけれど、これ持ってて下さいませんでしょうか」
文代は毛皮でかさばった外套を脱いで、男に渡した。麻酔薬のケースは、とっくに、外套のポケットから、ハンドバッグへと移し換てある。
男は両手を差出して、大切そうに外套を受取った。
日頃の文代さんに似合わしからぬ、不躾なやり方である。が、その実は、こうして、男の手をふさいでおいて、彼女が化粧室に入っている間、例のケースが紛失したことを気付かせまい策略であった。