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こよみ

暦

壺井 栄

「新潮」1940(昭和15)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,332 字 · 112 页

青空文庫

その作太郎の所へ、カヤノは今あんなにいそいそとして帰ってゆく。実枝は、どや! と作太郎に自分の背中を叩かれているように思えて、カヤノから目を離した。

やがて汽船は、しだいに桟橋を離れて舳を沖に向けた。艫の方へ回って、若い者のようにハンカチをふるカヤノの姿も暗の中へ消えてしまうと、見送りの人はのろのろときびすを返した。実枝は高子と肩を並べ、先刻カヤノに貰った二枚の紙幣をだまって高子のポケットにつっこんだ。何? 何? と高子が目を丸くしているのを、実枝ははげしく首をふって制した。それと分ると、高子は小さい声で、

「な、私も今度は旅費を持って帰ったんで」

返そうとするのを実枝はむりに押しやって、

「そんなら義兄さんに差入れて」といった。

高子は葬式の時にも片道の旅費しか持っていなかった。世間並みな言葉でいえば、姉妹じゅうで一番学問のある男に添って、一番苦労をしているのが高子であった。夫の正昭がある事件に引っかかって留守の家庭を守り、高子はそれ以後を自分で働いて暮していた。ミチもカヤノもそういう高子の苦労を同情してはいるが、思想犯だという正昭のことについては、なるべく話をふれないようにしているのを実枝はひとりで感じとっていた。