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こよみ
暦
壺井 栄
「新潮」1940(昭和15)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,332 字 · 112 页
そうしている間にも、重吉は白い髭に埋もれた唇を動かしては、
「たけくれや、たけや」を繰りかえす。実枝は自分も口に出して、
「たけくれや、たけ」と呟いてみた。ふっと小突き上げられたように勢いこんで、
「お父さん、酒か、酒のみたいんか」と叫びかけた。
「おう、たけやがい」
分ってくれたかというように重吉は大きくうなずいた。皆が驚いている中を実枝はおよねの店へかけだした。量ってもらうのももどかしく、店先に並べてあった一升瓶を抱えて帰ってくるなり、枕元に坐った。
「酒が来たで酒が、お父さん」
逃げてゆく生命を引止めるようにいって、大きな盃になみなみとついだ。そして脱脂綿に充分吸わせては重吉の唇へもっていった。ちゅうと音を立てて吸っては、ああ、と口を開けて息をつぐ。誰も止める者はなく、ただ実枝一人が涙をぽたぽた布団の上に落しつづけ、それをくりかえした。吸う力はしだいに薄れていった。その日おり悪しく遠くの村の学校へ研究会に出かけていたクニ子が唇の色を失うほどあわててかけつけ、
「お父さん」
と、その胸をゆすぶった。もうそれにこたえる力もなく、目も開けなかった。それを待ってでもいたように誰かが末期の水を汲んだ茶碗をクニ子のそばへ置いた。