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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
彼は松山の茂庭佐月に、そのむねを手紙で知らせ、また、同じ意味の手紙を二通書いた。一は船岡で山守りをしている与五兵衛、一は青根の温泉の宿へあてて、どちらも、在国ちゅうの甲斐にとっては、身のいこいに欠くことのできない相手であった。
九月五日の夜。中黒達弥が自殺しようとした。達弥は江戸に残されてから、ひと間にこもったきり、人と話しもせず、なにかひどくおもい悩んでいた。
彼は七歳のとき父に死なれ、いまは母が船岡にいるだけで、二十二歳になるが、まだ妻はなかった。亡父の代からの家従で、住居も館の内にあり、四年まえまでは、ずっと甲斐の側に仕えていた。達弥は色が白く、眉が濃く、おもながで、端麗な顔だちだった。口かずの少ない、潔癖な、気のつよい性分で朋輩とのつきあいはあまりないほうであった。
五日の夜十時ころ、甲斐が覚書を書いていると、侍部屋のほうで、ざわざわと人の騒ぐ声がした。甲斐は筆をとめて、しばらくようすを聞いていたが、ふつうの騒ぎとは思えないようすなので、机の上の鈴を鳴らした。
すぐに塩沢丹三郎が来た。
「茶をくれ」と甲斐が云った、「なにを騒いでいる」
丹三郎は「みてまいります」