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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

「お客さまはどなたですか」甲斐を見るとすぐに、おくみが訊いた。甲斐は微笑しながら「客はない」と云った。

「まあ、うれしい」とおくみは眼をかがやかせた、「では久しぶりでゆっくりとお話しができますわね、ずいぶん久しぶりだわ、お客なしでいらっしゃるなんて」

「まだよろこぶのは早いよ」と甲斐が云った。

おくみは眼をそばめた、「あら、どうしてですか」

「客は来るかもしれない」と甲斐が云った。

「かもしれないって」

「いつか留守に来た客さ、酒井侯だよ」

おくみは「まあ」といった。

その夜は珍らしく、他人の混らない夕餉をとった。舎人、達弥、丹三郎らにも膳を並べさせ、おくみは甲斐の脇に坐った。甲斐はきげんよく酒を飲み、船岡へ帰ったら鹿を狩るのだ、と楽しそうに云った。

おととし甚次郎(山の名)で射損じた鹿がある、くびじろというやつで、もう何年も追っているのだが、そのときも五昼夜追ったあげく、江尻で逃がしてしまった、と甲斐は云った。与五兵衛は付いていなかったのですか、と矢崎舎人が訊いた。与五は決して鹿を殺さない、と中黒達弥が云った、ほかのけものはとる、熊をとらせたら名人だが、決して鹿はとらないと云った。