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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

それから、はぐらかすように、男心というものをさ、と云った。

「本当のことを仰しゃって下さい」とおくみは泣きじゃくりながら云った、「あたしがもっと不幸になるようなことがなにかあるんですか」

「もういい、ねるとしよう」

「お願いですから仰しゃって」

「もう眠ろう」と甲斐はおくみの肩を撫でた、「うるさくすると追いだすぞ」

甲斐は湯島に二日いた。

二十九日には船岡へ立つことにきめ、惣左衛門に支度を命ずる使いを出した。すると二十八日の朝、――まだ九時ころのことであるが、酒井忠清が五人の供をつれて、騎馬で乗りつけて来た。

その日、甲斐は本邸へ帰るつもりで、食事も早く済ませ着替えも終ったところだったが、知らせを聞くとすぐに雅楽頭だろうと察し、羽折をぬいで、自分で出迎えに出た。町住居だから式台はない、甲斐はおくみと共に、玄関の四帖に坐ってかれらを迎えた。雅楽頭はそのとき三十七歳であった。背丈はさして高くないが、やや肥えた逞しい躯つきで、下ひろがりの角張った顔は肉づきがよく、書いたようにはっきりと濃い眉と、ひきむすんだ唇のあたりに、自意識のつよい、きかぬ気性があらわれていた。