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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

甲斐は一揖した、「それこそおぼしめし違い、浪人のことでお歴々にふさわしいもてなしはできませんが、おたち寄り下さればこの上もなき名誉、よろこんで御接待をつかまつります」

「覚えておくぞ」と雅楽頭は云った。そして盃を置いて立ちあがった、「また会おう、ぞうさであった」

そして雅楽頭はさっさと出ていった。扈従の少年が刀を捧げてつづき、甲斐とおくみも送っていった。

酒井忠清を送りだすと、甲斐もすぐに帰り支度をした。

「どうしてあんなに、強情をお張りなさいましたの」とおくみが不審そうに訊いた。

「強情だって」

「お盃ですわ」とおくみが云った、「どんなときにもこだわるようなことはないのに、どうしてあのお盃をお受けにならなかったんですの」

「べつに仔細はない」と甲斐は云った、「前へ出るのが面倒だっただけだ」

「それだけで酒井さまを怒らせておしまいなすったんですか」

「侯は怒りはしない」

「お怒りになりましたわ、お顔がぱっと赤くなって、あたしあの盃をお投げになるかと思いました」

「えらいな」と甲斐は微笑した、「侯は怒りはしなかった、しかしあの盃は投げたかもしれない、おれも投げるかなと思った」