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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
稲妻型におりてゆく石段の一方は、掩いかぶさるような叢林で、やかましいほど虫が鳴きしきっていたし、ときどきその虫が、提灯をめがけて飛びついて来た。
石段をおりきって、その道を広小路に向かってゆくと、角から二軒手前に駕籠屋があった。「政右衛門」という店で、甲斐の姿をみつけると、あるじの政右衛門が自分で出て来た。
「吉祥寺橋だ」と甲斐は提灯を消しながら云った。政右衛門は黙って頷き、若い人足を三人呼んで自分も身支度をした。
政右衛門は三十五歳になる、不動の政といって、ひところは男達として暴れまわった。数年まえ、神田明神の祭礼のときに、五人づれの侍たちと喧嘩になり、危うく斬られようとしているところを、通りかかった甲斐が仲裁にはいって、彼を助けた。それ以来、政右衛門は甲斐に心服し、甲斐のためならいつでも命を捨てるつもりでいた。甲斐も政右衛門のひとがらを愛し、金を出して駕籠屋の店をもたせてやった。
――お屋敷で下郎にでも使って下さいませんか。
と政右衛門はせがんだ。
――いつもお側にいて御用を勤めたいんですが。
しかし甲斐は駕籠屋の店をもたせた。
むろん自分の都合ではない、いつか役に立てようなどとは考えもしなかった。