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ノア

ノア

久生 十蘭

「富士」1950(昭和25)年2月号~4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 77,285 字 · 153 页

青空文庫

四朗は下段のコット・バアスの上へスーツ・ケースを置き、書類や古手紙を選りわけながら、うむうむ、とうなずいていたが、

「日本の景色なら、間もなくいやというほど見られるんだ。窓ばかり見ていないで、もう一度しっかり鞄の中をしらべておくほうがいいよ。憲兵が乗りこんでいるから、横浜へ着く前に検査をやるかもしれないぞ」

船牀の端へ鞄を投げだして煙草を吸っていた克巳が、

「おい四朗、あまりビクビクすると、大切なときにしくじってしまうぞ。われわれの心境はガラスみたいに透明なんだから、脅えることなんかない。ねえ、竜さん、四朗はすこし神経質になっていると思いませんか」

と上段の船牀を見あげながらいった。山内竜平は枕に肱を立てて、

「ふむ」と笑ってみせた。

四朗が神経質になるのも、克巳がわざとらしく落着いているのも、常態を失っている点では、たいしたちがいはない。山内自身もまわりを刺戟しないようにつとめて冷静にかまえているが、心のうちは笑うどころの騒ぎではなかった。

孝助は四朗のそばへ大鞄をひろげ、今更らしくゴソゴソやっていたが、

「これはどう。やはり破ってしまうほうがいいかしらん」