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ノア
ノア
久生 十蘭
「富士」1950(昭和25)年2月号~4月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 77,285 字 · 153 页
ノアの方舟
収容所と飛行場の間は、かならず施錠するのに、なぜか今日はしない。いつもとようすがちがっていた。
「今日は寛大だね」
「はあ、今日はいいです」
「逃げようと思ったら、いくらでもチャンスがあるがね」
「やってみてください」
「やらしておいて、射つか……手がかかってやりきれないからね」
「飛んでもない。あなたは『国際法』で厳重に保護されているひとなんだから、滅茶はできませんよ。憲兵伍長ぐらいがそんな大それたことをやったら、憲兵隊の上のほうの首が、いっぺんにいくつもすッ飛んでしまいまさ」
「大袈裟にいうじゃないか」
「いや、ほんとうに」
前窓にうつるのは稲田の間の長い単調な道だった。透視図を描いてどこまでも直線に伸びている。
「さてさて、スールー諸島とは」
いつまでこんなことをつづけようというのか。それで結局どうしようというのか。
「牧田君、奥さんは?」
「子供が二人、居ります。だしぬけにどうしたんです」
「君も早く帰りたいだろうと思って」
牧田の顔は石のように無表情だった。
ノアの方舟
スラバヤを出帆してから四日、海洋性の滝のような豪雨がやみまもなく降りつづくのに、赤道特有の絡みつくようなひどい暑気で船艙はさながらの蒸風呂になり、蚕棚へ長く寝てカスカス呼吸をしているという辛い船旅になった。