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ノア

ノア

久生 十蘭

「富士」1950(昭和25)年2月号~4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 77,285 字 · 153 页

青空文庫

最初の査問

「ああ、面白かった」

とドスンと船牀に腰をおろした。

四朗は父親に似たおだやかな眼差で克巳の顔を見ながら、

「兄さん、それァなんの真似なんです」

と笑いながらたずねた。

克巳は蒼黒い頬のあたりを痙攣らせて、

「日本では、大御魂だの国の柱だの、そんなたわけたことをいっていれァいいんだから、訊問がはじまったら、お神楽を踊って憲兵の度胆をぬいてやろうと思うんだ」

「憲兵をそんなに馬鹿にしていいのかね。そんな考えでいると、やられてしまうよ」

「おれのことは心配しないでくれ」

不機嫌な顔でいうと、はぐらかすように、

「おやじさん、お富士さんが見えるよ。赤富士だ」

と船窓を指さした。

霧が薄れ、幾重にも畳まったうねりのむこうに、朝日を受けた富士が波に載った構図で見えていた。広重の赤富士のおだやかな蘇芳色ではない。血でも浴びたような無気味な富士だった。

最初の査問

午前八時、帝亜丸は突堤を左に見、プールにかえり波をうたせながらゆらゆらと内港へ辷りこんだ。

「とうとう帰った」

山内は孝助たちとB甲板の舷墻に凭れ、近づいてくる港の全景を眺めやった。山内桟橋の大クレーンの傍でハーケンクロイツの旗を翻したドイツの汽船が荷役中で、ぞっとするような汚い海の面を鴎が低く飛びちがっていた。