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しんしょたいこうき
新書太閤記
吉川 英治
08 第八分冊
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 192,758 字 · 383 页
老母は音もなく立ってその姿を入口の端近くへ移した。
秀吉は蔀の下で、陣羽織の埃を払っていた。尼ヶ崎の陣中で剃ろした髪はまだそのまま陣頭巾につつんでいる。寧子は良人のうしろへ廻って、そっと、
「お母さまが、板敷までお迎えに出ていらっしゃいます」
と、小声で注意した。
秀吉はあわてて母の前へ寄ってひれ伏した。どうしたのか何もいうことができなくなっていた。やがてようやく洩らしたことばは、
「母上。御難儀をおかけいたしました。おゆるし下しおかれましょう」
という一語に過ぎなかった。
老母はすこし膝を退げた。入口まで立って出迎えた礼を、もういちど繰り返して、わが子に手をつかえるのであった。わが子とはいえ、この際の礼儀は、凱旋した家の主を迎えるのである。こうするのが武門の家風でもあった。つね日頃の単なる親子としてではない。
けれど秀吉は、ここに無事な母の姿を見たとたんに、つい骨肉の情愛それだけになって、老母の膝へ寄りかけたのである。しかし老母の恭謙な礼儀はそれをそっと拒むかのようにして、こういうのであった。
「お許様もつつがなく、まずはようお帰りなされた。……けれど、この母の難儀や無事を問う前に、なぜ、右大臣様(信長)の不慮をお語りなさらぬか。