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こよみ

暦

壺井 栄

「新潮」1940(昭和15)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,332 字 · 112 页

青空文庫

事務所の引け時がすぎても帰らず、夕食にも戻ってこなかった。実枝が迎えに行くというのを、母親の敏感さで、何かを感じていたいねは、今日は用があるんじゃと、体裁を作り引きとめたものの、夜が更けるにつれて不安はつのり、八重を信じきっている心がだんだんぐらついてきた。その日は時雨模様なのに八重は雨コートも持っていかなかった。夜に入ってから雨はやみ間もなく降っていた。十一時をすぎたころ、忍びやかな下駄の音が二人分裏口でとまった。井戸端で足を洗っているらしく、釣瓶の音や水のはじける音がし、それに交って何かひそかに話し合っている。納戸に寝ていたいねは脹れ物のひいたように初めて大きな息をした。やがて、入口の戸が静かに開き、足音が忍びやかに近づいてきた。茶の間の襖越しに八重は、お母さんと小声で呼んだ。安心とも、腹立ちともいいきれぬ思いでいねの唇はふるえ、涙さえ流れてきた。いねは眠ったふりをして唇を噛んだ。その次の日から八重は熱を出し、試験場も四五日休んで寝ていた。何といって聞いたものか、顔を見るといねは何もいえなかった。今に八重の方から何とかいいだすだろうと、それを待っていたが八重は何もいわなかった。