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こよみ
暦
壺井 栄
「新潮」1940(昭和15)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,332 字 · 112 页
「ああうまい」
それは腹の底から出たような声であった。一ぱいの盃はまさにこの世に置き忘れようとした幸福を思いださせたもののように、またのましてくれ、と重吉はその盃を実枝に返さずに枕もとの膳の中へしまった。実枝はいいことをしたように嬉しかった。クニ子にそのことを話すとひどく叱られた。
「死んでもえいなら飲みなされ」というクニ子のいい分は、ほかに重吉と同じ病気である人が、酒をのんだために悪くなって死んだではないか、というのであるが、その人のように三合も五合も飲むわけではなし、小さい盃にわずか一ぱいの酒が重吉の命をちぢめるとは実枝には思えなかった。たとえまた毒であろうとも、つれ合いもなく生き残ったこの老人が、そのために一と月二た月を生きのびたとて、あの一杯の喜びとはかけ替えられまいと思えた。そして、これはいねのさしみと同じように、重吉の生涯に残されたささやかなぶにだと考えた。次の日も実枝はだまってさしだすと、重吉はにこにこして盃を取りだし、なめんばかりにして楽しんだ。酒はクニ子に内緒であることに二人はうなずき合う気持で、毎日盃一ぱいずつうけわたし、一合の酒は十日以上もあった。