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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

おみやといっしょにいると、これまで彼の知らなかった感情や感覚が、彼のなかにめざめ、つよい力で彼を支配しようとする。しかも彼は、自分がそれに抵抗できなくなるだろう、ということを感じ、そのために自分が不潔で、けがらわしく思われる。

――この家を出てゆこう。

出てゆかなければならない。幾十たびとなくそう決心した。しかし出てはゆけない、彼はその家を出てゆくことはできなかった。

――金も持ってはいないし、仙台藩の追手に捉まるだろう。

たしかに、そのとおりだった。それは決して「口実」ではない。口実ではないか。たしかに「口実」ではないか。新八は自分を恥じ、自分を不潔に思った。

おみやは浮き浮きしていた。夕餉の支度をしながら、あまえた声で新八に話しかけ、なにか楽しいことでもあるように、鼻唄をうたったりした。――二人が食膳に向かったとき、六郎兵衛が帰って来た。彼は酔っていた。そして、いつものように酒を命じ、奥の六帖で飲みだした。

六郎兵衛が飲みだすとまもなく、隣りのお久米が戸口へ来て、おみやと何か話しだした。お久米は日本橋のほうの、回船問屋をしている老人のかこい者で、おみやの話しによると、六郎兵衛に想いをかけているのだという。