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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

「まだ終らないんですか」と七十郎が云った、「今日は涌谷のじいさんの会もあるんでしょう、五時から涌谷のじいさんの会があると聞いていましたがね、そうじゃないんですか」

「七十郎も出るのか」

「あのじいさんだけは、苦手でしてね」

「そうらしいな」

甲斐はまた書いた。

――明日の朝、涌谷どのは帰国される。

そして彼は筆を措いた。

「一ノ関などへも平気でゆくのに、涌谷どのが苦手というのは七十郎らしい」

「弁慶にも泣きどころといいますよ」と七十郎がいった。

甲斐は覚書をしまい、片手で机の上を払った。あけてある窓から黄ばんだ柳の葉が、散りこんで来るのである。柳の木は裏木戸のほうにあるし、それほど風があるとも思えないのに、その枯葉は、しきりに窓から散りこむのであった。

「向うに里見がいるのだろう」と甲斐が云った。

七十郎は手酌で飲んだ、「むろん来ています」

「ぬけて来たのは、いまの話しをするためか」

「なに、ひと口論やって、うるさくなったからです、この盃で一杯どうですか」

「あとにしよう」

「貴方は酒のみではない」

「酒は好きだよ」

「貴方は酒のみではない、よく酒を飲むし、酒好きのようにみえるが、貴方は酒のみではない」