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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

甲斐は黙っていた。

綱宗は顔をあげて甲斐を見た。綱宗の眼は濡れていた。甲斐はじっと、その濡れている綱宗の眼をみつめた。

「ゆるせ、悪かった」と綱宗が云った、「また来てくれるか」

「正月には船岡へ帰ります」

「また来てくれるな」

「御番であがりましたら伺候いたします」

「待っているぞ」綱宗は顔をそむけ、片手をうしろへ伸ばしながら云った、「はつ、手をかせ」

綱宗は、はつ女に支えられて、奥へ去った、数寄屋の中は、すでに暗く、手燭を持った侍女が、二人の先に立ち、老女を残して、他の侍女たちも、うしろを護っていった。

甲斐はそれを見送った。

はつ女に支えられた、綱宗の姿を、手燭の光が、ぼうと、いかにも心もとなくうつし、そして上段の襖のかなたへ、蹌踉と去っていった。甲斐はしんと、それを見送っていた。綱宗の姿が見えなくなると、彼は静かに眼をつむり、ややしばらく、黙って坐っていた。それはあたかも、いまの綱宗の姿を、記憶にきざみつけようとしているかのようにみえた。

ふと啜り泣きの声が起こった。老女の藤井が泣きだしたのであった。彼女は低く、囁くような声で、云った。

「おいたわしいと、お思いになりませんか」