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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

虎之助はよく眠っていた。宇乃は襖や障子のあけたてに注意しながら、高廊下のほうへ出ていった。曇っているのと、時刻が早いのとで、あたりはまだうす暗く、かなり強く風が吹いていた。

刺すような冷たい風に、衿をかき合わせながら、宇乃はちらと庭の向うを見た。高廊下へ出ると、必ずそうするのが癖になったようである。樅ノ木は静かに立っていた。そこは風が当らないのだろうか、かなり強く吹いているのに、甲斐の樅は枝を張ったまま、しんと、少しも揺れずに立っていた。

「宇乃さん、こちらです」と呼ぶ声がした。

庭へおりる踏段のところに、宮本新八がこっちを見ていた。身なりが変っているだけでなく、どこか顔ちがいがしたようで、すぐには彼だということがわからなかった。宇乃は静かに近よっていった。

「しばらくでございました」と宇乃が云った。

宇乃はそう云って会釈しながら、なつかしそうに新八を見た。新八の顔は蒼ざめて硬ばり、寒さのためだろう、色をなくしたような、乾いた唇がふるえていた。

「原田さまからと仰しゃったのは、あなたでしたの」

「そうです」と新八は唇を舐めた、「もちろん、私です」

「わたくしまた、あなたは仙台へいらしったものとばかり思っていましたわ」