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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

おくみは断わりを云った。

――自分には浪人ではあるが武家の主人がいる。いまその主人が留守だから、酒の接待はできない。

すると相手は笑って、その浪人の名はなんというぞ、と訊いた。

――八十島主計と申します。

――たしかにそうか。

――わたくしはそう聞いております。

――まあいい、酒を飲もう。

相手はまた笑った。そのとき、供の一人がおくみを脇へ呼び、その人が老中の酒井侯であり、自分は用人の松平内記であること、御主人のためにも悪くは計らわないから、酒の支度をしてくれるようにと云って、金を包んでさし出した。

おくみは金を返して、酒肴の膳をととのえた。雅楽頭は半刻ほどきげんよく飲んだ。

――その八十島という男は、よほど果報な生れつきとみえるな。

雅楽頭はおくみをそんなふうにからかった。おくみは相手にならなかったが、雅楽頭はなおつづけた。

「待て」と甲斐が云った、「そこをどう云ったか、もっと詳しく話してくれ」

「あたしの口からは云いにくうございますわ」

「云いにくいところは略してもいい」

おくみは考えて、よく思いだすというふうにつづけた。

云いにくいというのは、自分が褒められたことらしい。