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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
「ぐちにしてしまった、話しを変えよう」甲斐は懐紙を出しながら云った、「昨日ここへ厩橋侯(酒井忠清)が来たそうだ」
「雅楽頭が」と周防は訊き返した。
「不快だから休みたいという口実で、座敷へとおって酒を命じたということだ」
「雅楽頭が」と周防は眼をみはった、「それは、どういうことだ」
「わからない」
「ここを船岡の隠宅と知ってのことか」
「そう思う」と甲斐は頷いた、「おくみは教えてあるとおり、八十島主計といったが、侯は笑っておられた、そして、おれに屋敷へ遊びに来いと云ったそうだ」
「罠だな」
「屋敷へ来なければ、自分のほうでまたここへ来る、とも云ったそうだ」
「それは罠に相違ない」
「おれにはわからない」甲斐は懐紙で顔を拭いた、「侯が一ノ関のうしろ盾だということは明白だが、この原田などに眼をつける理由がわからない」
「それはたぶん一ノ関の」と云いかけて、周防は急に口をつぐんだ。
襖の外は廊下になっている。このおくみの寝間は、甲斐の寝所とひと間へだてた、中廊下のつき当りにあるのだが、その廊下でとつぜんおくみの声がし、同時にあらあらしい足音が聞えた。
なにをなさる、とおくみが叫び、「立ち聞きをしていたのだ」