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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
甲斐は動かずに、身分が違うからこれで勘弁していただきたい、と辞退した。
「おれを知っているのか」と雅楽頭が云った。
甲斐は穏やかに、女どもから聞いていたし、厩橋侯であることは、江戸の市民なら誰でも知っているであろう、と答えた。
雅楽頭は唇で笑った、「おれもそのほうを見たように思う」と雅楽頭は云い、するどい眼で、じっと甲斐の眼をみつめた、「たしかに、どこかで会ったように思う」
雅楽頭は明らかに、その一瞬をたのしんでいた。その一瞬をたのしむために来た、といってもいいほど、彼の眼には期待の色がみえた。
甲斐の左の頬にふかい竪皺がよった。甲斐はかすかに唇で笑い、ごくさりげなく、それは光栄であると云った。老中のなかでも、いま御威勢高き厩橋侯にそういわれることは、一代の面目であると云った。
そこへ酒肴の膳がはこばれた。
雅楽頭だけの膳である。おくみが自分で雅楽頭の前に据え、給仕をするために坐った。雅楽頭は盃を取って飲み、「遣わそう」と甲斐にさしだした。おくみが取次ごうとすると、寄って取れ、と雅楽頭が云った。甲斐はおくみに「頂戴してくれ」と云い、やはりそこを動かなかった。