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しっちょうき
失蝶記
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,072 字 · 44 页
それから五年めの秋、明神の滝でおめにかかるまで、私はいつかあなたのことを忘れていました。変動の激しい、緊迫した時勢の中で、心のゆとりを失っていたためもあるが、うちあけて云えば、杉永とあなたのあいだに婚約がある、と聞いたからでしょう。明神の滝でおめにかかったときも、私の心は少しも騒がず、自分の耳がだめになったことなど、おちついて話すことができました。
それがいまはこんなに変ってしまった。私は今朝、歩きに出た山の林の中で、咲きかかっている石楠花の蕾を眺めながら、六年まえのあなたの姿をまざまざと思いだしたのです。滝で会ったあなたではなく、六年まえの、まだほんの少女だったあなたの姿をです。そうして、心の奥にひそんでいた胸のときめきが、燃える痛みのようによみがえるのを感じ、しかしなにもかも取返しがたく失われた、ということを改めて思い知ったのです。
私は杉永幹三郎を斬りました。たった一人の友、少年時代から誰よりも親しく、血のかよった兄弟よりも深く信じあっていた友を、この手にかけて斬ったのです。私がこの手記を書くのは、どうしてそんなことになったか、という理由を知ってもらいたいためです。