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しっちょうき

失蝶記

山本 周五郎

「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,072 字 · 44 页

青空文庫

五

われわれ同志のあいだでは、ともかく私と杉永とが中心になっていたため、彼の責任はひじょうに重くなり、同志のあいだに起こる異論を纒めるだけでも、かなり苦心しているようにみえました。こうして年があけ、去年の秋になって、私は思いがけなくあなたに会ったのです。

五

紺野かず子さま。

私はいま山を歩いて来ました。ここへ移ってから初めての外出で、おすえが心配し、ずっといっしょに付いていました。初めてこの手記を書きだしてから、かれこれもう三十日になるでしょうか、和田村にいたとき蕾のふくらみはじめた石楠花が、ここではもう咲きさかっていますし、林の中では早朝から蝉がやかましく鳴き交しています。むろん耳に聞えるのではありません、林に反響するのが後頭部に感じられるのです。

「おすえ」と私は振返って訊きました、「いま蝉が鳴いているだろう」

おすえは微笑しながら頷き、手をあげてまわりの樹立をぐるっと指さしましたが、それからふと驚いたように、自分の耳を摘んで、聞えるのか、というしぐさをしました。

「いや」と私は首を振りました、「聞えるんじゃない、感じるだけだよ」

ここでね、と云って頭のうしろを叩いたのです。