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しっちょうき
失蝶記
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,072 字 · 44 页
二
ここには些かの弁解も歪曲もありません、現実にあったことをあったままに書きますから、どうかそのおつもりで読んで下さい。
二
「おすえ」と治兵衛が囁いた、「ちょっと起きろ、おすえ」
揺り起こされておすえは眼をさました。いつもついている行燈が消えて、家の中はまっ暗であり、枕許にいるらしい父の姿も見えなかった。
「声を立てるな」と治兵衛が云った。
「どうしたの」おすえは囁き返した、「どうかしたの、お父っさま」
「外に人がいるようだ」
おすえは急に眼がさめ、寝衣の帯をしめ直そうとしたが、手がふるえて思うようにゆかなかった。
「本当に誰か来たの」おすえが訊いた、「谷川さまを捜しに来たのかしら」
「わからない」と治兵衛が答えた、「だがこんなよるの夜中に来るとすれば、ほかに考えようはないだろう」
「どうしたらいいの」
「おちつけ」と治兵衛が云った、「着替える暇はないかもしれない、そのままで釜戸の蔭に隠れていろ、もし人が来たらおれが応対をするから、隙をみて隠居所へ知らせにゆくんだ、わかったか」
「それからどうするの」
「こっちを押えているあいだに、谷川さまを案内して逃げるんだ、忘れたのか」