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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

おけいは不満そうな表情をした。栄三郎の口ぶりがうわのそらだったからである、――だが、彼女が去ってから暫くすると、栄三郎はふいと起きあがった。

「そうだ」と彼は呟いた、「ひとつ頭をこわしてみよう、このくそ頭を、――」

そして彼は立って着替えを始めた。

母屋へいってそう断わると、おけいが心得顔に「自分がそこまで案内しよう」と云い、主婦のおみねはすばやく紙入を出して渡した。栄三郎は拒もうとした、小遣ぐらいは持っていたからであるが、しかし思い直してすなおに受取った。おけいは表門からでなく、庭の横にある木戸から彼を伴れ出した。そこは粘土質の急坂で、(土止のように)丸太で踏段が作ってあり、左右の崖から木が蔽いかかって、昼でもうす暗く、空気は湿っていてひんやりと涼しかった。坂をおりて、ごみごみした狭い横丁をぬけて出ると、その角に駕籠屋があり、おけいは駕籠屋に栄三郎を紹介すると、独りでそこから戻っていった。

「町尻の新水でございますね」

駕籠が二、三丁いってから、駕籠舁きがそう訊いた。

「いや、――」と栄三郎はちょっと迷って云った、「此処には廓があるんだろう」

「へえ、廓というほど、ごたいそうなもんじゃあございませんが」