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だんがいのさっかく

断崖の錯覚

黒木 舜平

「文化公論 第四巻第四号」1934(昭和9)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,483 字 · 26 页

青空文庫

私が出かけた温泉地は、むかし、尾崎紅葉の遊んだ土地で、ここの海岸が金色夜叉という傑作の背景になった。私は、百花楼というその土地でいちばん上等の旅館に泊ることにきめた。むかし、尾崎紅葉もここへ泊ったそうで、彼の金色夜叉の原稿が、立派な額縁のなかにいれられて、帳場の長押のうえにかかっていた。

私の案内された部屋は、旅館のうちでも、いい方の部屋らしく、床には、大観の雀の軸がかけられていた。私の服装がものを言ったらしいのである。女中が部屋の南の障子をあけて、私に気色を説明して呉れた。

「あれが初島でございます。むこうにかすんで見えるのが房総の山々でございます。あれが伊豆山。あれが魚見崎。あれが真鶴崎。」

「あれはなんです。あのけむりの立っている島は。」私は海のまぶしい反射に顔をしかめながら、できるだけ大人びた口調で尋ねた。

「大島。」そう簡単に答えた。

「そうですか。景色のいいところですね。ここなら、おちついて小説が書けそうです。」言って了ってからはっと思った。恥かしさに顔を真赤にした。言い直そうかと思った。

「おや、そうですか。」若い女中は、大きい眼を光らせて私の顔を覗きこんだ。