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だんがいのさっかく
断崖の錯覚
黒木 舜平
「文化公論 第四巻第四号」1934(昭和9)年4月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,483 字 · 26 页
四
旅館へ帰り、原稿用紙にむかって、いたずらがきして居れば、おのれの文字のひとつひとつが、額縁に収めるにふさわしく思えるのだった。文章ひとつひとつが、不朽のものらしく感じられるのだった。そんなゆがめられた歓喜の日をうかうかと送っているうちに、私は、いままでいちども経験したことのない大事件に遭遇したのである。
四
恋をしたのである。おそい初恋をしたのである。私のたわむれに書いた小説の題目が、いま現実になって私の眼の前に現われた。
その日私は、午前中、原稿用紙を汚して、それから、いらいらしたような素振りをしながら宿を出た。赤根公園をしばらくぶらついて、それから、昼食をたべに街へ出た。私は、「いでゆ」という喫茶店にはいった。いまは立派な新進作家であるから、むかしのように、おどおどしなかった。じっさい、私にとって、十日ほどまえの東京の生活が、十年も二十年ものむかしのように思われていたのである。もはや私は、むかしのような子供でなかった。
「いでゆ」には、少女がふたりいた。ひとりは、宿屋の女中あがりらしく、大きい日本髪をゆい、赤くふくれた頬をしていた。私は、この女には、なんの興味も覚えなかったのであるが、いまひとりの少女、ああ、私はこの女をひとめ見るより身内のさっと凍るのを覚えた。