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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

侍は振返った。

「あたしみやですよ、ほら、お浜屋敷の渡辺にいた、――お忘れになって」

「お浜屋敷ですって」

「渡辺九郎左衛門のうちの者ですよ」とおみやは云った、「あなたお兄さまのお使いで、御本邸から幾たびもいらしったことがあるじゃありませんか、お茶をさしあげたり、御膳の給仕をしてあげたみやをお忘れになったの」

「ああ、あなたですか」

彼は宮本新八であった。彼はようやく安堵したらしい。十六歳という年をあらわした、親しみとなつかしさの眼でおみやを見、ぶきように目礼をした。

「おみそれして失礼しました、いろいろな事があって気がせいていたし、それに……」

「恰好が変ったからでしょ」おみやはくすっと笑った、「こんな恰好では見違えるのはあたりまえだわね、あなたはどこかへいらしったんですか、お旅帰りのごようすだけれど」

「いや、私は」

新八はすばやく周囲を見まわした。そして、ごくっと唾をのみながら俯向いた。すると、かぶっている笠のために、その顔が見えなくなった。

「私は、逃げて来たんです」

おみやもあたりに眼をやった。

「逃げて来たんですって」

「ええ、でもここでは云えません、追われているんです」