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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

おみやはその二戸建の、大川に近いほうの家へいって、帰った挨拶をし、留守の礼を述べた。家の中の返辞は、若い女の声であった。

「かこい者なのよ」

おみやは新八に囁いた。それから自分の家の戸をあけた。さして古い家ともみえないが、安普請なのだろう、たてつけが悪く、戸はぎしぎしと軋んだ。おみやはさきにあがって、中から勝手口をあけ、洗足の水を取ってくれた。

部屋は上り端の三帖のほかに、六帖が二た間あり、入口と反対のほうに三尺の廊下、その戸をあけると板塀で、向うの家の庇が、その板塀の上にのしかかっていた。

新八があがってゆくと、おみやは裏の戸をあけ、障子もあけ放して、ちらかっている部屋の中を、手ばしこく片づけていた。

「ゆうべでかけたままなのよ」とおみやは云った、「きっとまたどこかで酔いつぶれているんだわ」

おみやは休みなしに話した。彼女は浮き浮きしていた。柔軟な身ごなしや、なめらかで、抑揚たっぷりな話しぶりや、ときおり新八を見るながし眼などは、殆んど媚びるほどたのしげにみえた。

おみやは話しつづけた。

彼女の兄は柿崎六郎兵衛といい、年は二十七歳になる。父は五年まえ、母は七年まえに死んだ。