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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

「覚えておこう」兵部は微笑した、「呼び出すにはどうしたらよいのだ」

「御用人に申しておきます」

「役に立つという証拠は」

「宮本新八という者を、御存じでございますか」

「知っておる」

「国もと預けになった筈でございますな」

「送る途中で脱走したそうだ」

「それを押えてあります」

「新八をか」

「宮本新八を押えておきました」兵部は懐紙を出して唇をぬぐった。唇を懐紙でぬぐいながら、「どこへ」と云った。六郎兵衛は黙っていた。

「どこに置いてある」と兵部が云った。六郎兵衛は黙って、じっと兵部の眼をみつめた。兵部は懐紙を捨てた。そして頷きながら云った。

「よし、手当を遣わそう」

そして「これ」と振返った。

六郎兵衛が兵部邸を出たのは、宵の八時にちかいじぶんだった。

雨もよいの、ひどく蒸しむしする晩で、空には雲が低く道の上は暗かった。六郎兵衛は大通りへ出て、宇田川橋のほうへ曲ったとき、そこでふと立停った。

――来るな。

と六郎兵衛は思った。立停った彼は、振向きはしなかったが、うしろから人の跟けて来るけはいは、まちがいなく感じることができた。

それは兵部邸の、築地塀の角に待っていたようである。