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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

相手はまだ若かった。黒っぽい着物に、袴の股立をとり、襷をかけていた。汗止をする暇はなかったらしい、覆面もしていないし、足は足袋はだしであった。

「どうするんだ」と六郎兵衛が云った、「まだやるのか」

相手は間あいを詰めた。黙ったままで、くいしばった唇のあいだに、歯が見えた。

「仕止めろといわれたのか」と六郎兵衛が云った、「きさまには無理だぞ」

そのとき相手が斬りこんだ。真向から右胴へ、大きく跳躍し、くの字に身を沈めて。これもまたたしかな、呼吸も太刀さばきも水際立った打込みであった。

真向へ来るとみえた刀が右胴へ切り返されたとき、六郎兵衛はすっと爪先だちになり、刀を右に振りざま横へとんだ。相手は激しく膝をつき、その刀が地面を打った。刀は路上の石に当り、火花がとんだ。石を打った刀の音と、そこから発した火花とは、その勝負の終ったことを示すようであった。

六郎兵衛は相手の面上へ刀をつきつけていた。

相手は片方の膝をついたまま、はっはっと肩で息をしていた。六郎兵衛は上から、そのようすをしばらく見ていた。門長屋の武者窓の、灯のさしている障子に、人の影が写った。いまの物音を聞きつけたらしい、だが、障子をあけるようすはなかったし、その影もすぐに見えなくなった。