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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

甲斐は自分の盃を見た。

「このはつを娶ったゆくたても、甲斐はよく知っているだろう、はつはおれの妻になる約束だった、これの叔母の紀伊は、正室ならばと云い、父上はよしと仰しゃった、そうではなかったか」と綱宗は云った。

甲斐は静かに眼をあげた。綱宗の云うとおりである。それが誇張でも誤りでもないことを、甲斐は知っていた。

はつ女の父は美濃の浪人で、三沢権佐といい、母は朽木氏であった。鳥取で生れたが、江戸へ出て、十三歳のときから叔母の紀伊に養われた。紀伊は初め江戸城の大奥に仕えていたが、池田輝政の女、振姫が、将軍秀忠の養女として忠宗に嫁したとき、その侍女として伊達家へ来た。はつ女はその手許でそだてられたもので、綱宗が妻にほしいと求めたとき、紀伊は「御正室ならば」とはっきり云った。綱宗はそれを父に告げ、忠宗は承知して、二人は祝言をした。だが、祝言の盃を交わしただけで、正式な披露はなく、結局はつ女は側室ということになった。

「そればかりではない」と綱宗はつづけた、「父上は亡くなる直前まで、家督の決定をなさらなかった、周防(茂庭定元)が病床へ幾たびもまいり、切諫を重ねたうえで、ようやく承知をなすったのだ、これも甲斐は知っているだろう、父上はおれを憎んでいた、憎まぬとしても疎んじておられた。