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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

彼女は頷いた。

甲斐は訊き返した、「なんだって、――」

「ゆうべおそくお着きになったんです」

「奥がか、――」

「中黒さまがお供ですわ」

甲斐の額の皺が深くなった。彼はひくく「うん」といい、足もとへ眼をおとした。

「なんだろう、――」

「御病気の治療をするために、江戸の良い医者にかかりに来たのだ、と仰しゃっていらっしゃいます」

「供は達弥だけか」

「あたしの存じあげているのは中黒達弥さまだけですけれど、ほかにお二人、中年の御家来がごいっしょです」

甲斐は顔をあげた。おくみは甲斐の顔を、ぎらぎらするような眼で見あげた。もう七八年も世話をしているが、彼女がそんな膏ぎった眼つきをするのは、初めてである。

「あたしにはわかってます」とおくみは云った、「ごぜんのお帰りが延びたので逢いにいらしったんですわ、御病気なんて嘘、御病気どころですか、お顔色もいいし、なが旅をしていらしったのに、ずいぶんお元気ですもの」

「なにを怒ってるんだ」

「怒ってなんかおりません」おくみは赤くなった。

「怒ってなんかいるもんですか、奥さまがあまりお若くてお美しいので、びっくりしているんです」

「あれはもう三十七だ」