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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

甲斐は兵部といっしょに立ち、いっしょに廊下を歩いていった。

「どうも困ったことができまして」と歩きながら甲斐が云った。

兵部は「うん」といった。兵部はほかのことを考えていたらしい、甲斐はそ知らぬ顔つきで、また呟くように云った。

「宇田川町のお屋敷へ、お願いにあがろうと思っていたのです」

兵部は振向いた。甲斐はつづけて云った。

「ほかにお願いする方もありませんので」

「なにをそんなに」と兵部はじっと、甲斐の表情を見た。

「船岡どのともあるものが、なにをそんなに困っておられるのか」

「お力を貸して頂けましょうか」

「勘解由のことか」

「それもありますが、――」

甲斐は微笑した。すると両の頬に一と筋ずつ、竪に深い皺が刻まれ、眼がやわらかく細められて、どんな人間をもひきつけずにはおかないような、温かい、魅力のある表情になった。

「それもありますが」と甲斐は云った、「じつは、国許から妻が出て来たのです」

「――――」

「私にも知らせず、どうやら藩庁にも届けずに来たもようで、まことに当惑いたしました」

「それはそれは」兵部の顔に「しまった」とでも云いたげなものが現われた。

――先を越された。