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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
「お水を運ぶ方たちは、たいへんですのね」と宇乃が云った、「品川のお下屋敷まではずいぶん遠いのでございましょう」
「まさかお下屋敷へはね」たつ女は苦笑した、「水を運ぶのは御本邸の殿さまだけですよ、陸奥守さまは御逼塞になられたのですから、いまは亀千代さまのいらっしゃる、桜田のお屋敷へ運ぶのです」
「――お可哀そうに」と宇乃は口の中で呟いた。
たつ女には聞えなかったらしい、振返って、増上寺の山門が見えると云った。振返ると、松林の梢をぬいて、意外なくらい近く、その山門が見えた。来るときには御成門から入ったので、いちどまぢかに眺めたのである。いまは高い屋根と、丹塗りの掲額のある二重までしか見えないのに、ぜんたいを眺めたときよりは、よほど大きく、重おもしいように感じられた。
客殿のほうに近く、重臣諸氏の宿坊の並んだ棟がある。そのほぼ中央どころに、高廊下から庭へおりる階段があるが、たつ女はその前で立停って、そこにある部屋を指さした。
「あれがわたくし共の御主人のお部屋です」
「原田さまのですか」
「そうです、それから」とたつ女は振向いた、「これが、船岡のお館から御自分でお移しになった、樅ノ木です」