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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
また、これは殆んど知られていないが、広小路のほうへぬける裏道もあった。それは椎や松やみずならの深い林と、灌木や藪の繁った丘の斜面で、じめじめした、細い、危なっかしく折り曲った石段である。――のちに丘上の叢林をひらいて天満宮が建てられ、そこから北よりに切通しができてからは廃絶してしまったが、それ以前からあまり登りおりする者はないようであった。
甲斐がいったときには、女たちはみな留守だった。おくみが案内して、木挽町へ芝居見物にでかけたのだそうである。その年の三月に、木挽町五丁目は森田勘弥の芝居が建ったが、おくみはそこへ律を案内したのであった。
中黒達弥は供をしたそうで、船岡から付いて来た他の二人、岡本次郎兵衛と松原十右衛門がいた。
甲斐は風呂の支度を命じて、二人に会った。妻の律も、かれら供の者たちも、江戸へ着いて以来五日、無届け出府のため、甲斐のおもわくを案じて、ずっと湯島の家から出ずにいたのである。
二人は恐縮していた。甲斐は小言らしいことは云わなかった。いつもの穏やかな調子で、船岡の人事や、農地のようすなどを訊いた。国許には老母と、長男の采女宗誠がいる、留守家老は片倉隼人であるが、みな丈夫で変りがない、采女は来年十五歳になると元服する筈なので、いまからそれをたのしみにしている、ということであった。