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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

――いっそ立ってしまおう。

律はそう思った。それはほぼ半刻くらい経ってからのことであるが、彼女がそう思ったのと符を合わせたように、甲斐がおくみと呼びかけた。

「私はちょっと横になる、支度をさせてくれ」と甲斐は云った。

「お支度ですって」

おくみはけげんそうな顔をした。甲斐は信助を見た。そして、信助がその眼で頷くと、おくみに向かって云った。

「私は腹痛を起こしたことになっているんだ。喜兵衛にそう届けさせたのでね、密告でもされたときの用心に、いちど横になっておくほうがいいと思うんだ」

「このうちにはそんな者はおりませんわ」とおくみが云った、「どうしてそんなことを仰しゃいますの、このうちにそんな、密告なんぞするような者が、いるわけはないじゃございませんか」

「そうらしいな」

「らしい、ですって」

「気にするな」と甲斐は笑った、「そんな者がいないことはわかっている、いまのは冗談だ、しかしひと休みするから、向うへ支度をさせてくれ」

「本当にお横になるんですか」

「雁屋は待っていてくれる」と甲斐は云った。

「おくみ」と信助が云った。

おくみは振向いて、兄のきつい眼を見、それから立って出ていった。