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ぶしゅうこうひわ
武州公秘話
谷崎 潤一郎
01 武州公秘話
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,572 字 · 209 页
と、「筑摩軍記」は記している。が、引き籠りがちになればなる程、ます/\彼は夫人の傍へへばり着いた。家来共や腰元共の居る席では自分の容貌に退け目を感じて自然不機嫌になったけれども、蘭燈の影ほのぐらい密室に這入り、夫人のいつに変らない艶冶な媚笑を眼の前にすれば、忽ち彼は耳のないことも唇の三角なことも忘れてしまって、無類の幸福感に陶酔することが出来た。もと/\彼のようなのは戦国の領主に不向きな性格なのだから、負傷をしたのを口実に領地の仕置きを家老共に任して、奥御殿に引っ込んでいられる方が結局気楽な訳であって、表面憂鬱に見えたとは云え、心の底では案外苦に病んでいなかったかも知れない。
そのうちに八月も過ぎて九月になった。例年ならば、観月の宴、菊の節句、紅葉狩りと、次々に催しがあるのだけれども、今年はそんな次第で殿の御気色がすぐれないものだから、表でも奥でも派手な遊びは差控えることにして、ほんの型ばかりの行事を済ませた。それでなくても牡鹿山の秋が更けて、村しぐれをさそう風のひゞき、落葉のおとが身に沁むのに、分けても奥御殿は火の消えたようにひっそりとして、夜になると前栽の草葉のがさ/\と鳴るのが物凄く、とき/″\遠くの方で鹿や狐の啼くこえが谷間にこだまする。