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ししゃのしょ

死者の書

折口 信夫

「日本評論 第十四巻第一号~三号」1939(昭和14)年1月~3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 62,340 字 · 126 页

青空文庫

南家の郎女の手に入った称讃浄土経も、大和一国の大寺と言う大寺に、まだ一部も蔵せられて居ぬものであった。

姫は、蔀戸近くに、時としては机を立てて、写経をしていることもあった。夜も、侍女たちを寝静まらしてから、油火の下で、一心不乱に書き写して居た。

百部は、夙くに写し果した。その後は、千部手写の発願をした。冬は春になり、夏山と繁った春日山も、既に黄葉して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は、昼も苑一面に鳴くようになった。佐保川の水を堰き入れた庭の池には、遣り水伝いに、川千鳥の啼く日すら、続くようになった。

今朝も、深い霜朝を、何処からか、鴛鴦の夫婦鳥が来て浮んで居ります、と童女が告げた。

五百部を越えた頃から、姫の身は、目立ってやつれて来た。ほんの纔かの眠りをとる間も、ものに驚いて覚めるようになった。其でも、八百部の声を聞く時分になると、衰えたなりに、健康は定まって来たように見えた。やや蒼みを帯びた皮膚に、心もち細って見える髪が、愈々黒く映え出した。

八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言うことを厭うようになった。そうして、昼すら何か夢見るような目つきして、うっとり蔀戸ごしに、西の空を見入って居るのが、皆の注意をひくほどであった。