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あぶらじごく
油地獄
斎藤 緑雨
「国会新聞」1891(明治24)年
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 34,624 字 · 69 页
時、羽織の紐を結びながらあなたどうぞと云って跡は聞えなかったが、どうぞという詞の内には、願うという意味がむろん籠って居る、どうぞ願う、何をこの貞之進に願うのか、また来てくれは彼れが商売の詞ならば特に我れのみに限らない、それを我れのみに限って「あら儂のではお厭なの」、あのどうぞもまた記憶すべきどうぞだと、こう思定めて四辺を見ると、こゝ六畳の一間は、何も彼も小歌の顔で埋って居るようだ。
しばらくして貞之進は思い返したように、きっと口をむすんで、馬鹿ッと自ら叱って袂の物を片附けようとしたが、何事ぞ一番に手に触れたは手巾で、これだ/\これを出そうとする時、「あら儂のではお厭なの」、厭ではなかったが取おくれて躊躇って居ると、推附て渡して呉れるに手が触って、あゝ手が触ってと思うと、あり/\その手が今も触るようで、むすんだ口は眼と平行にほどけてしまった。どうかして忘れたいにも忘れられない、忘れるは寝ることとそれから唐更紗の夜の物を展べたが、その時二階の下で小歌らしい声がするので、ヤと貞之進は耳を立てゝよく聴くと、似ても似つかぬ宿の小女が、例ものハシャギ声で笑って居る