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おちばいき

落ち梅記

山本 周五郎

「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社、1949(昭和24)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 30,748 字 · 61 页

青空文庫

「なんです、御法事でもあるんですか」

「ここでは申上げられませんの、わたくし先にまいってお待ち申しておりますから、そして、おばさまにはなにも仰しゃらずにいらしって頂きたいのですわ」

「――時刻はいつごろですか」

「わたくしは午にはまいっております」

こう云った由利江は、それでもう約束は定ったというように、牡丹をひと枝いただいてまいりますと云って、静かに部屋を出ていった。そのあと横庭のほうで、母といっしょに牡丹を截るらしい、やわらかな笑い声などが聞えたが、間もなくしんとなったきりで、戻って来るかと思った由利江はそのまま顔を見せなかった。あとで聞くと、挨拶はわざとせずにゆくからと云って帰ったとのことだった。

後になって思い返すと、それが金之助の半生における平穏な生活の最後の日であった。それまでは単に兆しに過ぎなかったものが、その日を区切りにしてかたちを現わし始め、やがて厳しい風雪の中へ彼をまきこんだのである。――二十五歳のその日まで、まったく金之助は平和と幸福に包まれて育った。彼には三つ年上の兄があったけれど、ごく幼いうちに死んだあと弟も妹も生れず、彼はひとり息子として父母や周囲の者から一倍たいせつにされた。