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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
線上閱讀戸坂 潤《思想としての文学(しそうとしてのぶんがく)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 頁
就中この公平な均衡を特に代表するフェヤ・プレーの選手が出て来る。それは善良か(雁金)、おどけているか(『機械』の主人)、聡明か(久内)、だということになっている。さっき仮定的な「機能」のおとぎ噺というようなことを云ったが、このフェヤ・プレーなるものは凡てのスポーツや勝負事がそうであるように仮定と一定の約束の上で初めて成り立つもので、このフェヤ・プレーから一種独特なユーモアを生じるのである(私がフト井伏鱒二を連想したのは出鱈目だろうか)。この明朗さを見ると、横光の所謂自意識は必ずしも例のインテリの不安とか困惑とかに就いての悲壮な悲劇の舞台とばかりは云えない。能動精神というのはこういうことを云うのかも知れぬと思う。
さてここまで来ると、横光の文学に於ける法則がやや形を捉えられるのではないだろうか。と云うのは、この均衡理論から一つの倫理法則がいやでも出て来るからだ。静止の道徳が夫である。この道徳律は不動心とでもいうべきものだろう。外界のアフェクションから独立することがその意味だ。処でここから横光の、否インテリゲンチャの、自由が導き出される。「自由というのは自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることの出来る濶達自在な精神なんだ。